ママ4と赤僕、そして欠陥パパ

よっしー
 アニメ版「赤ちゃんと僕」の1話をものすごくひさしぶりに見た。初見はリアルタイムだから、10年近く前。あのころの自分と今の自分は、見方によっては変わっていないんだけども、子供というキーワードを座標軸にしたとき、がらりと変わってしまっていたりする。ようは、10年前は単なる「子供好きの青年」で、今は「3人の子持ち」という違い。
 だから、当然といえば当然なんだけど、子供を主題とした作品にたいしての見方ががらっと変わっている。
 「赤ちゃんと僕」1話だけでも、ひさしぶりに見たら、どんな作品かだいたい頭の中でよみがえってきた。
 この作品、昔は大好きで、貧乏ながらコミックを少しづつ買ってたのですが、半分ぐらいで挫折してしまいました。この作品は「良作」とは思うが、「名作」とは断言できずにいる。当時は「赤ちゃんである“みのる"の行動がデフォルメされすぎてて飽きてしまった」と考えていた。
 そして、今回の再見の感想は「重苦しい」につきる*1。この重さは、半端じゃなく重い。だから、少しでも自分自身を解放するためにも、このテキストを書いて頭の中をまとめようと思う。
 その重さの核は、“みのる"の面倒を見る小学生の“たくや"の葛藤が、リアル世界での親の育児ノイローゼそのもので、否応なく感情移入させられ、「育児ノイローゼ」の苦痛が呼び覚まされてしまうのだ。
 劇中の“たくや"は小学生で未熟だが、だからといって、大人になれば子育ては成熟するのか、というのは疑問だ。
 言葉が通じない赤ちゃんが泣きやまないときの、焦り、不安感、いらだちは、“たくや"も、大人も一緒だ。そのうえ、所詮は他人事である周囲の無神経な言葉「しっかりと面倒を見れば泣かないんじゃないの?」。それが繰り返し繰り返し続いたときの、憎しみ、それと、憎しみを感じた自分への自己嫌悪も。キリキリとナニもかもが自分を責めているような錯覚。
 “たくや"のセリフの「こんなこと、いつまで続くんだろう」という、先が見えない絶望感は、暗く重い物で、そこにも感情移入をしてしまう。
 それでも、“たくや"は、「にいちゃん」として、“みのる"を守って行かなければならない存在を受け入れ、進んでいく。
 “たくや"の子育ては進んでいくが、“みのる"の世話をひとりで抱え込んでしまう。家政婦や父親の再婚などの話などは、アレルギー反応のように拒否。“みのる"を「育てないといけない」という使命感が逆に他者の子育てのへの参加を拒んでいるように見える。もしも、“たくや"が専業主夫ならば、“みのる"を保育園には預けないだろう。
 「このままでは“たくや"が子育てのストレスでボロボロになってしまう」という感じ方は、そこに作品の重苦しさがつながっていく。いくら周辺のキャラをおちゃらけにしても、浮くだけ。
 さて、同じチャンネルで再放送中の赤ちゃんを主題とした別の作品の話に。「ママは小学4年生」。
 小学4年生が赤ちゃんの世話をするという意味では同じような作品ですが、受ける印象は全く違う。
 こちらはものすごく楽天的だ。泣きやます事のできるご都合主義的なアイテムが登場するというのもあるが、それだけじゃないと考える。
 一応、未来からきた、赤ちゃんの“みらいちゃん"は周囲には秘密にしているという事だが、4年生の“なつみ"の性格からか、同居の子供嫌いの叔母に平日昼間の育児をお願いしたり、偶然、秘密を知られてしまった“大介"にすら、“みらい"の子守を頼んだりしている。自然と複数人(集団)でする子育てができている気がする。大家族的というか、年の離れた兄弟のようでもある。
 かといって、作品の方はお気楽ばかりではなく、子を思う親の気持ちを味わい、“みらい"を祖母に預けて、海外で心配してる両親の元へ行こうと一度は決心したり、小学校をやめようとしたり、保育園の存在について悩んだりと、多少浅いながらも、ポイントを押さえたストーリーになっている。
 どっちがリアルかと言えば、当然、「赤ちゃんと僕」だろう。しかし、見ていて、「いいな」と感じるのは「ママは小学4年生」のほうだ。
 「赤ちゃんと僕」は、現在と過去との対峙、「ママは小学4年生」は未来への希望だ。エンターテイメントなのだから、わざわざノイローゼを悪化させる事はない。
 そしてタイトル。僕は欠陥パパだという事を思い知る。

*1:結末を抜きにしても