なぜ、ODしてしまうほど追い込まれたのか。
 おいらの職業は、いわゆるミニコミ誌的な物の作成である。それのレイアウトの実質上の責任者であり、上司の不在時など、状況によっては全体の判断をゆだねられるポジションだった。しかし、それから来るストレスは問題になる程度じゃなかった。
 その時点での一番のストレスは、記事を書くことだった。レイアウトの責任者と言っても、零細企業なので、当たり前のようにいろんな仕事をこなしていた。うちの会社の文章レベルは高く、記事一つひとつに要求される質も高い。どやされて、全面書き直し、なんて光景は日常茶飯事だ。(おいら以外にも、というより、書くのが専門の人は当然おいらより抱える記事の本数が多くて、おいやより怒鳴られる回数は多いのだが)
 ODの2週間前、おいらはある企業にたいする批判記事の取材をしていた。
 取材を進めていくと、批判されるべき企業側に理解というか、「それは、しょうがない」と感情移入してしまっていた。
 批判対象への感情移入も珍しいことではない。むしろ、必要なことでもある。しかし、文章の送り手側として、一番感情移入というか、心情の中心におかないといけないのは、文章の受け手側だ。
 取材を進めるということは、取材対象と濃いやりとりがうまれる。一方、受け手側との接点は“紙媒体”を解してのワンクッションあるものだ。気を抜くと、あっという間に自分の“位置”を見失い、バランスを崩す。
 その、ODの2週間前の取材は、取材対象側と記事の受け手側の双方の立場に立とうとする自分に板挟み感を感じていた。厳しく本質を書くのならば、“受け手側の立場に立つ”ではなく、“受け手側の立場の記事を書かないとOKが出ない”という状況への板挟み感だ。
 それに苦しみながらもなんとかOKをもらい記事を仕上げることができた。
 この仕事が、ODの引き金のひとつに思えていた。しかし、ストレスを感じていたといえ、きちんと仕上げていた。普通に考えたらODの必要性を感じない。
 やはり、ODをしてしまった深層的な原因がどっか別な所にあるんじゃないのだろうか。